わしが教えたる!父と子の中学受験

2022年受験の長男(ぽーやん)が麻布かどっかに入るまでのお勉強をがっつり後押し。2019年受験の長女とけは塾なしで乗り切りました。

存在

 娘の理科の単元をみていましたら,クリスマスにこんなん書いていました。娘にはちょっと難しすぎるな・・

 

 未来を予想すると,絶望に行きつく。

 人類には未来がない。なぜならば,地球上の食料はすでに人口を養うに足りないというのであるし,さらには,そのうち太陽が膨張して地球は灼熱の中に消えるというのである。

 人類や地球には有限の未来があるばかりである。全ては,有限である。いかなるモノも。

 このような絶望,恐怖を抱いたまま,日常生活を送ることはできない。聖地も,堅固な墓石も,不朽というべき芸術作品も,揺るぎない価値であると確信される正義も,その存在の時間が有限であるとすれば,人類は,今日のためにのみ生き,結果,明日にも消滅するだろう。

 それではいけない。対策せねば。

 恒常的な食糧不足や温室効果を生ずる二酸化炭素などの特定効果物質の排出量制限策の限界により,人類は,進化して小さくなるだろう。そんなに遠くない未来に平均の体長は10センチメートル足らずになり,全人類が十分に食餌しても食料が不足することはないし,その排出する特定効果物質は人類以外の生物その他の作用により非特定物質に還元され得る量にまで減少する。当面の間。

 世代交代による環境適応という緩やかな進化では間に合わないから,人類は,自らの科学の力で自らを小さくするだろう(これも進化の一つの態様である。)。これは,「放置の放棄」と呼ばれる。「放棄」という言葉の否定的ニュアンスを嫌う者は,「変異の自主的選択」などと呼び,「放棄」という言葉の自虐的な意味合いを好む者は「神の放棄」と呼ぶ。種として「何もしない」ままで自然淘汰への信仰に種の存続を賭け続けることの放棄であり,合目的的な変異の積極的選択である。

 縮小は,数1000年をかけて,数100次にわたって行われるが,そのときの科学の到達点を以ってしても数センチメートルが限界である。棚上げされていた問題は,ふたたび,人類に何かを変容させ,あるいは何かを放棄することを求める。

 人類は,自らの形状を変容させることになる。体長数センチメートルになってまでヒトの形を維持させることに意味はない。「ヒト形状放棄」に至るには「形状維持派」との深刻な抗争は避けられない。維持派は,ヒトは,数センチメートルにはなったが,頭蓋や手指を有するという形状を維持するべきであり,脚部が比較的長いというのが格好良いという文化的な価値などは受け継いでゆきたいと願うが,それは感傷的であると考える勢力が優勢となる。

 形状維持の願望は,多くの宗教的信仰と基礎を同根しているが,結局,ヒトはその総数を数10分の1にまで減少させる長期間の凄惨な抗争を経て形状放棄を断行し,ヒトは体長数ミリメートルのミジンコのような形状にその機能を凝集させて,貯水槽様のヒト居住池で,口吻に生える繊毛の長さと体長とのバランスが格好良さの基準となるという文化的な価値などを新たに形成してヒトとしての営みをする。ミジンコのようになったヒトは,もちろん,食餌し,交接し,排泄し,そして,思考するが,これらのための対価は必要がない。すべての個体がこれらの期待を満足できるように設計されているから,他のヒトから物質その他の価値を取得する必要がなく,したがって,他のヒトより優越する必要性もない。もちろん,通貨その他の交換可能性を得るために何らかの行為(働くという行為)をするというのは,想像することの困難な原始的営みとして記録上にのみ,誤記録であるとの解釈をされて概念として存続をする。

 そのうち,「世代固定」が断行される。ある個体が消滅し,その同性質個体が既存個体に置き換えられるということに,何らの有意性を見出すこともできない。ヒトは,すでに自らのありようを自らの意思と能力によって変化させることができるのであるから,外的変化要因への適応のために個体置換を行う必要もない。一定の時期に存在する個体(同時点で体外に排出されている受精胚を含む)が,最後のヒトとして,固定される。

 個体の消滅への恐怖は,こうして,新たな生命の誕生の停止と引き換えに消えるかに見える。ヒトは,世代交代を放棄するのと引き換えに,死への恐怖から一時的には免れ得るのである。世代固定は,個体固定とも呼ばれ,個体は,減少の方向での非固定性を許されるから,2個体(必ずしも雌雄同体であるとは限らない)が,同体となることも多い。個体数は次第に減少し,数10から数1000の旧個体が同一ミジンコ内に存在するという状況になる。

 そしてヒトは,10数億固体から,同一ミジンコ内でその有機体(刺激感応器官の維持を主な目的とする),神経系統,記憶媒体,思考系を共有する1つの個体である「マンション」と呼ばれる複合個体として結合し,次第に個体数を減少させ,やがて,数100の個体となる。

 太陽の膨張による地球の消滅が強く意識され始めるようになり,太陽の膨張によっても存続しうるような方法を見いだすことのみがヒトの営みの唯一の目的となる。その方法の探究は,至高の価値である。その「価値」は,ときに仮定を求めることのある信仰とは異質の唯一の価値である。唯一性は,比喩的なものではない。

 ヒトは,その後の数10万年を,漸減する数100から数10の個体として,消滅の恐怖もしくは消滅への恐怖からの離脱の可能性のみを想う存在となる。

 開放を願う。祈り,考える。

 存在の希求は,代替可能性のない本当に唯一の価値である。単純で,矛盾が指摘されたり否定してみることが提案されることはない。祈りと思考とが区別されることは,もはやない。ヒトは想う。その他にやるべきことはない。あるはずがない。ヒトは,恐怖を感じる有機物としてあり続ける。

 ときに恐怖のあまりヒト全体は意識を停止させる。種として「気を失う」のである。数10億年もの間,消滅の恐怖と消滅への恐怖とのみ向き合う。種は,気を失い,覚醒し,存在することを確認し,その消滅を恐怖し,その恐怖の消滅が覚醒と両立しないことに絶望し,意識を停止させる。繰り返し。何度も。

 ついに,ヒトは,有機物であることを放棄する。地球の物質的消滅よりも長い時間存在し続けるには,それは不可欠の選択である。そしてヒトは,いくつもの鉱物を混合して帯電させた「粒」になる。記憶か,思念か。

 その「粒」は,それ以外の無機物とは異なった,「記録」を備えている。ヒトは無機物として太陽が消滅した後にも,存在をする。愛という感情の記録や痛みという感覚の記録を伴って,その記憶の記録体となって,熱量,光量,質量が相対的に変化する別の無機質群の中に存在をし続ける。

 「粒」は記録の保持の過程で思念し,そして到達する。進化は,あるときから恐怖からのより容易な離脱に向けた集団的行為であったはずであり,それをヒトは成し遂げたのだと結論する。苦しまなければ消滅することができず,消滅することが苦しみであった(あるいはそう記憶していたと記録されていた)ありようから開放され,ヒトは,いつでも,楽に消滅することができるようになった。ただ,帯びているものを,解き,溶けてしまえばよいのである。ヒトは,そのような存在としてあり続ける。存在という概念の中に,「存在する」モノとしてあり続けるのである。

 果たして,解放され,溶けたのかどうかは,すでに,ヒト自身には分からない事柄である。