わしが教えたる!父と子の中学受験

2022年受験の長男(ぽーやん)が麻布かどっかに入るまでのお勉強をがっつり後押し。2019年受験の長女とけは塾なしで乗り切りました。

歴史の暗記を歩きながらするぞ!

 さて,とけこと我が娘,第一志望は御三家であります(えっへん。前回組分けで偏差値50切りましたが(しくしく),解き直しをさせてみると1時間で200点くらいも上がっちゃい(みんなそりゃぁ解き直しをすれば上がるんでしょうけどね。しかしそれでも,おいおい,と思わざるを得ない),試験慣れしていないことの弱さを痛感しましたが,力が付いてきていないわけではなかろうと(思いたい)。)。

 で,ま,社会は現在の単元,歴史ですよね。江戸時代(2)から明治時代。歴史なんか,覚えていけば良いんですよ。できれば流れを意識しながら。概要をきっちり頭に入れておけば,その他の事柄(例えば事象が起こった地図上の場所など)は,頭に入りやすくもなるでしょう。

 そして,覚えるには反復がいい。動きながら,気晴らしの散歩を兼ねて覚えられるとなおよい。動きながらって,覚えやすいんですよね。わたくし,○○試験の受験をしていたとき,自分のノートをカセットテープ(!)に吹き込んで,その自分の声(今ならいろいろ変換できますが,当時はまんま自分の声)を何度も聞いて,功を奏したことがあり,これは,今からでも取り入れようと。

 で,作りました。江戸時代以降音読用文章。これを聞き続けておけば,歴史全部が数時間で回せちゃうという優れもの。まさに,「耳に残る」。これを自分で読ませて,ipodシャッフルで仲良く聞きながら散歩しよーっと。聞いてくれさえすれば,効果のほどは,次回に検証されるでしょう。

 できればワード文書でUPしたいんですが,やり方がわかんないので,以下,ズラリズラリーっと貼り付けちゃいます(せっかく作ったんで)!

 

江戸時代以降:音読用

江戸時代

1600年,徳川家康豊臣氏方の西軍の将・石田三成関ヶ原の戦い(岐阜,天下分け目の戦い)で破り,1603年に征夷大将軍となり,江戸幕府を開いた。家康はすぐに将軍職を二代秀忠に譲り,徳川の世が続くことを知らしめた。なお,豊臣氏は,1614年の大坂冬の陣,1615年の大坂夏の陣で滅んだ。江戸幕府には,政治全般を行う老中の下に,大名を監視する大目付,江戸の政治を行う町奉行,幕府の財政を扱う勘定奉行,大阪,京都,佐渡など重要な都市・鉱山を治める遠国奉行,家臣である旗本を監視する目付が置かれ,臨時に置かれる最高の職として大老があった。幕府が直接支配する幕領(天領)は約400万石あり,多くの年貢米を得,直接の家臣である旗本の領地を合わせると,全国の4分の1を支配していた。大都市や鉱山を直接支配し,貨幣を造る権限を持ち,長崎での貿易も独占していた。一万石以上の領地を与えられた武士を大名といい,大名が治める領地と支配の仕組みを藩という(幕藩体制)。大名は,徳川氏の一族である親藩(御三家は尾張(愛知),紀伊(和歌山),三戸(茨城)),関ヶ原以前から徳川氏に従っていた譜代大名関ヶ原のころから従った外様大名に分けられていた。外様大名は江戸から遠い地方を治めさせられる傾向が強かった。1615年,二代将軍秀忠は大名が守るべき決まりである武家諸法度を定め(大きな船を作ることを禁じたのは,外国との貿易で大名が経済力をつけることを回避しようとしたためである。),1635年,三代将軍家光は,これに,大名の妻子を江戸に人質として留め置き,大名に力を蓄えさせないようにするため大名を一年ごとに江戸と領地に代わる代わる住まわせる,参勤交代の制度を加えた。京都に置かれた京都所司代天皇や公家を監視し,公家らを取り締まるための禁中並公家諸法度が定められた。江戸時代には,武士,農民,町人(商人と職人)に分けられる身分制度ができあがり(士農工商の四民),武士は城下町に住み,主君から給料をもらい,武士の特権として苗字帯刀を許された。百姓は甲府藩(山梨)の慶安の御触書に見られるように,四公六民,五公五民などの厳しい年貢を納めさせられ,生活も厳しく規制され,五人組が作られて年貢の納入などについて連帯責任を負わされた。百姓には土地を持っている本百姓と土地を借りて耕す貧乏な水のみ百姓がいた。村の支配は,本百姓から選ばれた名主(庄屋)・組頭・百姓代の村方三役が行った。家康は海外に渡ることを許可する朱印状を発行し,朱印状を持っている朱印船だけに貿易(朱印船貿易)を許した。シャム(現在のタイ)などに日本町ができ,山田長政のように現地の国王の信頼を得た者もあった。家康はキリスト教を禁止し,家光は1635年に日本人の海外への出国だけでなく海外にいる日本人の帰国も禁じた。1637年,島原(長崎)・天草(熊本)のキリシタンが厳しい年貢などに抵抗し,16歳の少年天草四郎益田四郎時貞)を頭として一揆を起こした(島原・天草一揆)。幕府はオランダ軍に砲撃を頼むなどして4か月もかけてこれを鎮めたが,その後一層キリスト教への弾圧を強め,絵踏(踏絵)を厳しく行い,寺の檀家となることを強制した(寺請制度)。

幕府は1624年にスペイン船,1639年にポルトガル船の来航を禁止して鎖国が完成した。オランダと中国(当初は明,1644年から清)とは貿易を行ったが,オランダの商館は長崎の人工島(出島)に移され,中国人の居住は長崎の唐人屋敷に限定された。貿易は,金・銀・銅・海産物を輸出し,生糸・陶磁器・砂糖などを輸入するものだった。オランダや中国の報告書である「オランダ風説書」,「唐船風説書」が海外の動きを知る貴重な資料となった。朝鮮とは家康が国交を回復し,対馬藩を通じて貿易を行い,将軍が代わるごとに朝鮮通信使が来日した。琉球王国は江戸時代初期に薩摩藩の島津氏が侵略し,中継貿易を続けさせて利益を納めさせた。蝦夷地のアイヌとは北海道南部の一部にあった松前藩が交易していたが,不公正なやり口が大きな反感を買い,1669年にはシャクシャインの戦いが起きた。

5代将軍綱吉は儒学に熱心であった。儒学は上下の区別を重んじ,身分制度に基づく幕府の政治に都合が良く,儒学の中でも朱子学が政府の学問とされた。綱吉は,財政難のために貨幣の質を落とし(1695年,元禄小判),犬などの生き物を極端に保護する生類憐みの令を出すなどして,犬公方などとやゆされ,人々の不満が高まった。6代,7代将軍に仕えた儒学者新井白石は貨幣の質を戻して物価の安定を図り,金銀の流出を防ぐために長崎での貿易を制限するなどしたが効果は限定的だった(正徳の治)。

農業では新田開発が積極的に行われ,秀吉のころから100年で耕地面積は2倍にもなった。深く耕すことのできる備中ぐわ,効率的に脱穀ができる千歯こき,風を起こしてもみ殻などを吹き飛ばす唐みなどの農具,菜種や綿をしぼった残りかすである油かすや,鰯やにしんを干したほしかなど,貨幣で買う必要のある金肥が広まり,収穫量は増えた。商品として売って現金に換える商品作物として,綿花,茶,菜種,紅花などの栽培も広まった。しかし,農民にも貨幣が必要となり,豊かな農民が土地を買って地主となる一方で,貧しい農民は土地を売って土地を借りて耕作する小作となり,貧富の差が大きくなった。各地で城下町の建設が進み,1657年には江戸で明暦の大火が起こるなどしたこともあって,林業も盛んになった。漁業では九十九里浜などで地引き網を使ってほしかの材料となる鰯などを大量に取るようになり,蝦夷地ではにしん漁やこんぶ漁が盛んになった。瀬戸内海では塩田で塩の生産が活発になり,東京湾でも行徳塩田などが幕府の保護を受けて営まれていた。工業では織物,和紙,漆器の生産が盛んになり,18世紀頃には道具・材料やお金を貸して品物を作らせる問屋制家内工業,19世紀になると,農民や職人を工場に集めて分業で生産を行う工場制手工業(マニュファクチュア)が採用されるようになった。鉱業も発達し,佐渡金山(新潟),石見銀山(島根),足尾銅山(栃木)などで採掘が行われた。農業や手工業の発達により商業も発展し,有力な商工業者は同業者の組合である株仲間を作って税を納める代わりに営業を独占して大きな利益を得た。貨幣は金・銀・銅の三種類であったが,江戸では主に金が,大阪では主に銀が使われていたため,都市では貨幣を交換する両替商が発達し,現在の銀行のような仕事をしていた。伊勢国(三重)の商人三井高利は江戸で越後屋という呉服店を始め,それまで後払いにしていた支払い方法を,その場で現金で売る方法にする代わりに安くする「現金かけ値なし」という方法で繁盛し,両替商としても成功して大商人となった。

江戸は「将軍のお膝元」と呼ばれ,参勤交代で全国から大名やその家臣が集まるなどし,18世紀には人口が100万人を超えて世界一の大都市となった。大阪・京都は都に近い上方と呼ばれ,全国の産物が集められる大阪は「天下の台所」と呼ばれ,各藩の大名は蔵屋敷を建てて年貢米や特産物を送り,大阪で現金に換えていた。年貢の輸送などのために江戸の日本橋を起点として五街道東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道)が整備された。宿場には馬などが用意されて宿場町が形成され,手紙を運ぶ飛脚も発達した。ただ,江戸を守るために,幕府は関所を設けて通行を厳しく見張っていた(入鉄砲に出女)。また,江戸へ攻め入られることを防ぐため,大井川など大きな川には橋は架けられなかった。水上交通も年貢米などの運送のため大きく発達し,日本海側を関門海峡を通って大阪に行く西廻り航路,津軽海峡を通って江戸に行く東廻り航路が整備された。大阪と江戸の間には,定期的に菱垣廻船や主に酒を運ぶ樽廻船が往復し,北前船蝦夷地から西廻り航路でこんぶ,さけ,にしんなどを運んだ。

5代将軍綱吉の頃(17世紀終わりから18世紀),上方の町人を中心として,初めての庶民中心の文化である元禄文化が栄えた。「世間胸算用」などの浮世草子で町人の姿を生き生きと描いた井原西鶴,自然や人生を見つめた俳諧(俳句)をよみ,東北地方を旅して紀行文「おくのほそ道」を書いた松尾芭蕉,「曽根崎心中」など身分制度のもとでの義理人情を人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本に描いた近松門左衛門,「見返り美人図」など人々の暮らしを描いて木版画の浮世絵のもとを開いた画家菱川師宣などがいた。幕府は儒学の中でも朱子学を重視し(残念ながら女性を軽視する傾向があった),江戸の湯島聖堂などで講義された。各藩も藩校で武士に儒学を学ばせた。江戸時代には子供たちは寺子屋に通って読み・書き・そろばんを学ぶようになり,識字率は世界的にも高い水準にあった。新しい学問として,儒教や仏教が伝わる前の日本人のものの考え方を明らかにしようとする国学がおこり,伊勢国(三重)の医者であった本居宣長が「古事記伝」を著した。8代将軍吉宗がキリスト教に関係のない漢文に訳された洋書の輸入を許したことから,ヨーロッパの学問を研究する蘭学がおこり,伊能忠敬は佐原(千葉)から江戸に出てほとんど全国の海岸を測量して歩き,伊能図と呼ばれる非常に正確な地図を作った。オランダ商館の医師ドイツ人のシーボルト鳴滝塾を開き,髙野長英ら多くの蘭学者を育てた。1774年,杉田玄白前野良沢オランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を辞書もなく4年をかけて翻訳して「解体新書」を出版し,その苦労を「蘭学事始」にまとめた。蘭学者の一人青木昆陽は,ききんに備えてさつまいもの研究をし,甘藷先生と呼ばれた。

元禄文化から約100年後(19世紀初め頃)江戸を中心に栄えた町人文化を化政文化という。社会の行き詰まりを背景に,世の中を風刺したり皮肉を楽しむ風潮が強い。文芸には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」のような軽い読み物,与謝野蕪村の絵のような俳諧小林一茶の人間味のある俳諧がある。和歌の形式で言葉遊びなどをする狂歌俳諧の形式で世の中を皮肉たっぷりに詠む川柳が流行った。木版画として大量に刷られるようになった浮世絵が庶民の手にも渡るようになり,喜多川歌麿美人画東洲斎写楽の役者絵,葛飾北斎の「富嶽三十六景」,歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」などがその代表である。庶民は,相撲,落語の寄席,花火見物,芝居小屋見物,伊勢神宮参りなどを楽しんでいた。

開国へ

8代将軍吉宗(御三家の一つ紀伊藩の出身)は,1716年から,①米を納める代わりに参勤交代を緩める上米の制,②新田開発やさつまいもの栽培の奨励,③目安箱の設置,④キリスト教に関係のない漢文に訳された洋書の輸入の解禁,⑤裁判の公正を図る公事方御定書の制定などの享保の改革を行った。吉宗は,せっかく上米の制で米を得ても米価が安定しなければ意味がないので,従来の収穫によって年貢を設定する「検見法」から米の収穫状況にかかわらず税率を一定にする「定免法」を採用するなど,米価の安定に腐心したことから米将軍と呼ばれた。その後老中田沼意次は商人の経済力で財政を立て直そうとし,税を納めさせる代わりに株仲間を積極的に認めた。1787年から,吉宗の孫松平定信が老中となり,朱子学以外の講義を禁止し,農村にききんに備えた米の備蓄を命じるなどした(寛政の改革狂歌によって皮肉られた)。1837年,天保の大ききんのとき,大坂町奉行の元役人が大阪で反乱を起こした(大塩平八郎の乱)。1841年から,老中水野忠邦が,農村を立て直すために江戸に出ている農民を農村に帰したり(人返し令),物価を引き下げるために株仲間を解散させたりしたが,かえって経済が混乱した(天保の改革)。

ロシアから1792年にラクスマン根室に,1804年にレザノフが長崎に来航して通商を求めてきた。幕府は北方の守りのため近藤重蔵に千島列島を,間宮林蔵に北方を探検させ,間宮は樺太が島であることを確かめた。伊能忠敬による蝦夷地の測量も始められた。19世紀に入るとロシアに続き,イギリス船などとの事件が相次ぎ,幕府は1825年に異国船打払令を出した。もっとも,1840年に清がイギリスにアヘン戦争で敗れたことを知った水野忠邦はこれを改めて水や食料を与えて帰すようにした。1837年,アメリカのモリソン号が日本人の漂流民を乗せて浦賀に来航したのを異国船打払令に従って砲撃した事件が起こり,これを批判した蘭学者の髙野長英や渡辺崋山が投獄された(蛮社の獄)。

18世紀後半,イギリスで産業革命が起こり,蒸気機関が実用化され,工業が飛躍的に発展して,イギリスなどの工業国は,工業原料を手に入れるためにこぞってアジアに進出し始めていた。アメリカも,北太平洋捕鯨を行うために太平洋航路を切望していた。1853年,アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀三浦半島)に来航して開国を迫った。幕府は砲台を築いて守りを固めたが,ペリーは翌年7隻の軍艦を率いて再度来航し,幕府はやむなく1854年,日米和親条約を結んで下田と函館を開港した。同様の条約をイギリス,ロシア,オランダとも結び,鎖国は終わった。和親条約によって下田に来たアメリカの総領事ハリスの要求に押され,1858年,大老井伊直弼は朝廷や一部大名の反対を押し切って日米修好通商条約を結び,函館の他,神奈川(横浜),長崎,新潟,兵庫(神戸)を開港し,同様の条約をオランダ,ロシア,イギリス,フランスとも結んだ(安政の五か国条約)。外国人が日本で犯罪を犯しても日本ではなく外国の領事が裁く権利を持つという領事裁判権治外法権)を認め,輸出入にかける関税を日本だけで決められない(関税自主権がない)という極めて不平等なものだった。井伊直弼は,開国・通商条約の締結に反対する吉田松陰(長州の萩で高杉晋作木戸孝允伊藤博文らを門下生とする松下村塾を開いていた)らを厳しく処罰したが(安政の大獄),これに反発した水戸藩の浪人に暗殺された(桜田門外の変)。一部の大名や公家の間では,外国人を打ち払おうとする攘夷論が高まり,天皇中心の政治に改革しようとする尊王論と結びついた(尊皇攘夷運動)。当初長州藩がこの運動の中心だったが(高杉晋作が武士でない者を組織した奇兵隊が有名),長州は下関砲台をイギリス,フランス,オランダ,アメリカの艦隊に占領されるという経験をし(下関戦争),薩摩藩も1862年に横浜近郊で薩摩藩の武士が大名行列を横切ったイギリス人を殺傷した生麦事件の報復として1863年にイギリス艦隊の砲撃を受け(薩英戦争),攘夷を捨て,倒幕の方針を固めていった。1866年土佐藩出身で海援隊などを組織していた坂本龍馬の仲立ちで,薩摩藩西郷隆盛大久保利通長州藩木戸孝允薩長同盟を結んだ。15代将軍慶喜は1867年に大政奉還をし,朝廷は王政復古の大号令を発して徳川幕府は滅んだが,1868年・1869年には戊辰戦争が起こり,鳥羽・伏見の戦い西郷隆盛勝海舟の会談によってなされた江戸城無血開城会津戦争榎本武揚らが北海道に新たな国を作ろうと函館に立てこもった五稜郭の戦いに至る戦乱が生じた。

江戸時代,冷害などを原因とするききんが度々起こり,農民は著しく困窮した。百姓一揆は江戸時代を通じて3200件も生じた。田沼意次の時代の天明の大ききん,大塩平八郎の時代の天保の大ききんのときには,特に多く起きた。結束を確認する書面には,指導者が分からないように,からかさ連判状などの工夫がなされている。都市では米の売り惜しみをする商人の家をおそうなどする打ち壊しが起きた。1856年には差別されていた人々が岡山藩で柿の渋や藍染めの服以外着てはいけないという命令に反発して一揆を起こした(渋染一揆)。金と銀の交換比率が日本は1:5,外国では1:15と大きく異なっていたため,幕末には貿易によって金が流出し,安い綿糸や綿織物が入ってきて国内の綿織物業が成り立たなくなるなどし,特に農民の不満が高まった。世直しを訴えて打ち壊しや百姓一揆が多発し,「ええじゃないか」とはやしたてる騒ぎも大流行した。

明治時代

戊辰戦争のさなかの1868年,明治天皇が神々に誓うという形で「五か条の御誓文」が発表され,民衆に対しては「五榜の掲示」が示された(もっとも,これはキリスト教の禁止などを含み,後に撤回された)。江戸は東京,元号は明治と改められて,様々な改革が始まった(明治維新)。中央集権国家を建設するため,1869年に大名から土地と人民を朝廷に返還させ(版籍奉還),1871年に全国の藩を廃止して府や県を置いて知事を政府が任命した(廃藩置県。沖縄は1872年に琉球藩,1879年に武力を背景にして沖縄県とした)。江戸時代の身分制度は廃止され(四民平等,ただ,公家・大名は華族,武士は士族,その他を平民とする身分制度はできた),全ての人が苗字を名乗ることを許され,職業,住所を変えることも自由になった。政府は,国の経済力を高めて強い軍隊を持つ富国強兵,産業を興して生産を増やす殖産興業を掲げ,1873年,徴兵令を定め,満20歳以上の男子(ただし長男や役人は免除)に兵役の義務を課し,働き手が奪われるとして反対する農民一揆が起こった。1873年,土地の所有者に地券を発行し,米でなく税(地租)を納めさせることとした(地租改正)。負担が大きかったために農民一揆が起こり,地租は2.5%に引き下げられた(「竹槍でドンと突き出す二分五厘」という川柳がある)。群馬の富岡製糸場など,製糸,紡績の官営工場が設立され,電信・郵便・鉄道の事業も広げられた。欧米の制度・知識・技術が取り入れられ,人々の生活は,洋服,牛肉食,ちょんまげを切り落とした散切り頭など大きく変化した(文明開化)。1871年に前島密によって郵便制度が確立され,1872年には7日を1週間とし日曜日を休日とする太陽暦が採用された。津田梅子ら女子留学生も出てきた。富国強兵のために教育が必要だとして,政府は1872年に学制を定め,6歳以上の男女に教育を受けさせることとし,全国に小学校を作らせたが,校舎の建設費や教員の給料は住民の負担とされ,授業料も高額だった。働き手の子供を学校に取られると考えたと考えた人々は農民一揆を起こした。一方,私立学校として「学問のすゝめ」を著した福沢諭吉慶應義塾を,大隈重信が東京専門学校(後の早稲田大学)を創立した。四民平等,徴兵令などによって特権を奪われた士族は生活も苦しくなり,不満が募り,征韓論に破れて政府を去った西郷隆盛に率いられて1877年,大規模な反乱を起こした(西南戦争)。平民からなる政府軍がこれを鎮圧したことにより,士族の武力による反乱はなくなった。

大久保利通を中心に旧薩摩藩長州藩及び土佐藩肥前藩(佐賀・長崎)(薩長土肥)の出身者で要職が独占された藩閥政治が行われていたが,1874年,板垣退助らは,藩閥政治を批判し,国民が選んだ議員で構成する国会で政治を行うべきであるとの民選議院設立建白書を提出し,自由民権運動がおこった。自由民権運動は,憲法を作り国会を開くこと(戦後,若者が作った憲法草案である五日市憲法が見つかり,広く憲法制定への関心が高まっていたことが分かる)に加え,地租を軽くすること,不平等条約を改正することも求めるようになり,政府はこれを厳しく取り締まったが,国民の要求に押され,1881年に,「1890年に国会を開く」と約束した。国会開設の時期が決まったことから,板垣退助自由党を,大隈重信立憲改進党を結成した。その後も混乱は続き,1884年には埼玉県秩父地方で農民が困民党を組織して借金の据え置きや減税を求める暴動が起こった(秩父事件)。1882年,伊藤博文はヨーロッパに渡って各国の憲法を研究し,天皇の権力が強い憲法にするために皇帝の権力が強いプロイセン(現在のドイツ)の憲法を手本にした。1885年,内閣制度が作られ,伊藤博文が初代の内閣総理大臣となった。大臣のほとんどが薩長の出身者で占められる藩閥政府だった。1889年2月11日,大日本帝国憲法天皇が国民に与えるという形で発布され(明治天皇が第2代内閣総理大臣黒田清隆に与えた),1890年5月3日に施行され,憲法に基づいた政治(立憲政治)が行われることになった。国を動かす力(主権)は天皇にあり,ほとんどの権限が天皇に集中している憲法であり,国民は臣民(天皇の家来)であるとされたが,「議会の定める法律の許す範囲内で」という制限付きで言論・出版・集会・結社の自由が認められた。1890年に初めて衆議院議員総選挙が行われ,大成会が与党(政府に近い立場の政党)となったが,立憲自由党立憲改進党などの野党(与党以外の政党)が選挙では過半数を占めた。ただ,選挙権は,直接国税(地租・所得税など国に直接納める税金)15円以上を納める満25歳以上の男子(当時の人口の1%に過ぎなかった)にしか与えられず(制限選挙),皇族・華族天皇の任命した議員から構成される貴族院の議員については国民に選挙権はなかった。また,当時は,北海道と沖縄の人には選挙権は与えられなかった。1890年には初の帝国議会衆議院貴族院二院制)が開かれ,法律や予算(国の1年間の収入と支出の計画)が審議された。この年,教育の基本として天皇に尽くして国を愛すること(忠君愛国)を説く教育勅語が発布され,戦時教育の基本となっていく。

1871年,岩倉具視木戸孝允伊藤博文大久保利通ら,岩倉使節団不平等条約改正のために欧米に派遣され,条約改正には失敗したが,2年間にわたって欧米の政治や社会を学んだ。1871年,清との間に対等な条約を結んで清と初の国交を開き,朝鮮には高圧的な態度で国交を求めたが不満を持った朝鮮はこれに応じず,西郷隆盛板垣退助は士族の不満を海外に向けるためにも武力を以て朝鮮を開国させようという征韓論を主張したが,受け入れられず,政府を去った。1883年には東京に鹿鳴館という西洋風の建物を築いて欧米の人を招いて舞踏会を催し,日本が文明国であることを示そうとしたが,フランス人の風刺漫画家ビゴーが描いたように,欧米人からは,猿まねであると笑われることも多かった。1886年,イギリスのノルマントン号が紀伊半島沖で沈没し,日本人の乗客を助けなかった船長が領事裁判権に基づいて軽い罪ですまされるというノルマントン号事件をきっかけに,不平等条約改正の声が高まった。ロシアの中国・朝鮮への進出に危機感を持っていたイギリスは交渉に応じる姿勢を見せるようになっており,1894年,外務大臣陸奥宗光がイギリスとの間で領事裁判権治外法権)の廃止を実現し,1911年,外務大臣小村寿太郎がアメリカとの間で関税自主権を回復し,ようやく不平等条約が改正された。

朝鮮をめぐって清と対立が深まり,1894年に朝鮮で外国の勢力を追放して政治改革をしようとする甲午農民戦争東学党の信者に率いられていたため東学党の乱ともいう)が起こって朝鮮が清に助けを求めたことから日本も朝鮮に出兵し,日清戦争が始まった。日本が勝利し,1895年の日清戦争の講和会議で結ばれた下関条約で,日本の代表だった伊藤博文陸奥宗光は2億テール(両)(当時の国家予算の3~4倍)の賠償金を支払わせること,朝鮮が独立国であることを認めさせること,遼東半島,台湾,澎湖諸島を日本の領土として割譲することを認めさせた。しかし,日本が中国・朝鮮に力を伸ばすことを警戒したロシアは,フランスとドイツとともに遼東半島の中国への返還を求め(三国干渉),政府はやむなくこれを受け入れた。三国干渉は,武力によって屈服させられたものだったため,国民の世論は政府の軍事力強化を強く後押しするようになった。ロシアは遼東半島の一部を租借(一定の期間外国の領土を借り受けること)して中国東北部満州満州は,清を建国した満州民族の出身地でもあり,石炭や鉄鉱石が豊富であり,地理的にも軍事上重要な位置にある)に進出してきたため,これを警戒したイギリスと日本は,1902年に日英同盟を結んだ。

1904年に,日本海軍が遼東半島のロシア艦隊を攻撃して日露戦争が始まり,遼東半島は多数の死者を出す激戦地となったが,日本海海戦東郷平八郎が率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊を破り,戦局は日本に有利となった。国民は多数が戦争を支持して強い関心を持って見守っており,新聞の発行部数が大きく伸びるなどしたが,社会主義者社会主義者とは,身分や貧富の差のない平等な社会を作ろうとする考え方を持つ人たちをいう。)の幸徳秋水キリスト教徒の内村鑑三などは戦争に反対し,歌人与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」を発表して大きな反響を呼んだ。日露戦争日清戦争と比べものにならない大きな被害を出し,日本でも資金・資材が尽き,ロシアでも革命運動が起こって戦争追行は両国にとって困難となり,日本はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の仲立ちを依頼し,1905年,アメリカのポーツマス講和条約であるポーツマス条約が締結された。日本の代表は小村寿太郎だったが,南樺太を日本の植民地(植民地とは,外国が力によって他国を支配し,一方的に政治を行う国や地域をいう。)とした他,遼東半島の旅順,大連の租借権,南満州鉄道の一部を譲り受け,朝鮮に対する日本の指導権・優越権を認めさせたが,賠償金を支払わせることはできず,これに対して,増税に苦しんでいた国民は激しく反発して,東京の日比谷で交番を焼き打ちするなどした(日比谷焼き打ち事件)。朝鮮は1897年に国名を韓国(大韓帝国)と改め,日本は首都漢城(現在のソウル)に韓国統監府を置いて政治の実権を握っていたが,持ち主がはっきりしないとして農地を取り上げたり,日本の歴史や日本語教育を強制したため民衆の抵抗は大きく,1909年,初代統監であった伊藤博文が韓国の青年安重根に射殺された。政府は,これを契機として,かねてからの予定通り,韓国を併合して植民地とした(韓国併合)。日清戦争の前後から,綿糸・綿織物・生糸などの軽工業が発展し(生糸の原料のまゆは国産,綿糸の原料の綿花は輸入していた),生糸は主にアメリカに輸出された。なお,1872年には生糸生産のための官営工場である富岡製糸場も建設されていた。1909年には生糸の生産額・輸出額は世界一となり,生糸の輸出によって得た利益は軍艦や兵器の購入に充てられ,富国強兵が進められていった。この頃活躍した経済人に渋沢栄一がおり,日本で最初の銀行を作ったほか,数多くの会社を創立して近代日本の経済の基礎を築いた。日清戦争の賠償金によっても軍備が増強され,軍備や鉄道建設のための鉄鋼生産に力が入れられるようになり,1901年には官営の八幡製鉄所が建設され,中国から輸入した鉄鉱石と筑豊炭田の石炭を使って鉄鋼を生産し,日露戦争の前後には重工業が発達していった。産業の発展に伴い,公害問題も発生した。日本有数の銅山であった足尾銅山(栃木)の鉱毒渡良瀬川に流され,流域では深刻な被害が広がり,衆議院議員田中正造は問題の解決に尽力したが,富国強兵には銅の生産が重要であったため,採掘は続けられた。日清戦争後,都市では労働者が団結するために労働組合を作り,賃金や労働時間の改善を求めて一斉に働かないという行動を取るストライキなどの労働争議を起こし,農村では製糸業を支える養蚕が盛んになり,大地主となって経済力を強める農民もあった一方,重税や不景気のために土地を売って小作人になる農民も増えた。明治時代には,医学の分野で,破傷風血清療法とペスト菌を発見した北里柴三郎赤痢菌を発見した志賀潔,黄熱病を研究した野口英世が活躍し,文学では「坊ちゃん」・「吾輩は猫である」を著した夏目漱石,「たけくらべ」・「にごりえ」を著した樋口一葉(肖像が五千円札に用いられている女流作家)らが活躍した。

第一次世界大戦

1914年,オーストリアの皇太子が,紛争が絶えずヨーロッパの火薬庫と呼ばれていたバルカン半島サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で殺害される事件(サラエボ事件)をきっかけとして,ドイツ・オーストリアなどの同盟国とイギリス,フランス,ロシアなどの連合国との間で,戦車・毒ガス・飛行機・潜水艦などの新兵器が使われ,30か国以上が参戦し,戦死者900万人,負傷者2000万人を出したかつてない大規模な戦争が始まった(第一次世界大戦)。中国では1911年に辛亥革命が起こり,中華民国が成立していたが,対戦が始まると日本は日英同盟を口実に連合国側についてドイツに宣戦を布告し,太平洋のドイツ領南洋諸島やドイツの基地があった中国の山東半島の付け根にある青島(チンタオ)を占領した上,1915年,大戦の混乱に乗じて中国に山東省の権利を譲ること,旅順・大連の租借期間を99年延長すること,南満州の鉱山の採掘権を日本人に譲ること,中国の政治・経済・軍事に関わる日本人顧問を採用することを求める二十一か条の要求を突き付け,大部分を認めさせた。大戦中の1917年,ロシアで皇帝による政治や戦争に反対して革命が起こり,世界で最初の社会主義の政府が誕生し,ロシア革命の影響が波及することを恐れた日本・イギリス・アメリカなどはロシア東部に出兵したが(シベリア出兵),出兵の目的は達せられず,1922年にはソビエト社会主義共和国連邦ソ連)が成立した。シベリア出兵による食料の需要を見越した米商人が米を買い占め,売り惜しみをしたことから米の価格が上がり,生活が苦しくなった富山県の主婦たちが米の安売りを求めて米屋に押しかけたことが新聞で報道されたことをきっかけに,全国で多くの同様の騒ぎが起こった(米騒動)。

当初中立を守っていたアメリカが1917年に連合国側についたことにより,1918年にドイツが降伏し,大戦は終わった。1919年,フランスのパリで講和会議が開かれ,ベルサイユ条約が締結された(日本の全権は西園寺公望)。ベルサイユ条約ではドイツは莫大な賠償金の支払,軍備の縮小を命じられ,日本は中国にあったドイツの権利を引き継ぎ,赤道以北のドイツ領南洋諸島を治めることになった。アメリカのウィルソン大統領の提案により,世界平和のための国際的な機関を設立することがパリ講和会議で決まり,1920年にスイスのジュネーブに本部を置く国際連盟が結成された。日本人としては,新渡戸稲造が事務局次長という要職に就いた。しかし,敗戦国であるドイツや社会主義国であるソ連は当初参加が認められず,アメリカは議会の反対により参加しなかったことから,国際連盟は強力な組織とはならなかった。

1919年3月1日,日本の植民地だった朝鮮で独立を宣言して独立のための運動,三・一独立運動が起きた。人々に独立を呼びかけて獄中で亡くなった少女(柳寛順)が知られる。中国でも1919年,パリ講和会議でドイツの権益が日本に譲られることになったことに対する反発や二十一か条の要求への抗議から,激しい抗日運動,五・四運動が起こった。

日本は大戦中,主戦場となったヨーロッパ諸国に代わって輸出を伸ばし,かつてない好景気となった(大戦景気)。急に大金持ちになる成金も多く現れ,三井・三菱・住友・安田など様々な業種にわたる企業集団として日本の経済を支配していた財閥も大きな利益を上げた。製鉄・機械・造船・化学などの重化学工業や海運業が発展し,動力は蒸気から電力に変わり,工業生産額が農業生産額を上回って日本は工業国となった。都市に集まって会社や工場に勤める人々がサラリーマンと呼ばれ,大都市では住宅地が郊外にまでのび,電車が発達し,バスや地下鉄などの新しい交通機関が利用されるようになった。洋服や洋食が広まり,ガス・水道・電話・電灯が普及し,1925年にはラジオ放送が始まり,活動写真と呼ばれた映画も盛んにつくられた。大正時代には義務教育は4年から6年になり,就学率もほぼ100%となった。大戦が終わるとたちまち不景気となり,1923年9月1日に関東地方南部をおそった関東大震災が不景気に拍車をかけた。関東大震災は昼前の人々がかまどで火を使っていた時間帯に起こったことから大きな火災が発生し,10万人以上が犠牲となったほか,混乱の中で朝鮮人が暴動を起こすなどのデマが流され,多くの朝鮮人,中国人,社会主義者が理由もなく殺害される異常な事態が生じた。

藩閥政治への批判は高まっており,1912年,長州藩出身の第三次桂太郎内閣が誕生すると,後に「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄犬養毅憲法に基づいた政治(立憲政治)を守ろうという護憲運動を起こした。これにより桂太郎内閣は総辞職した。このころの,民主主義の実現を求める大きな動きを,大正デモクラシーという。デモクラシーとは人民が政治を動かす権力を持つ民主主義を意味するが,大日本帝国憲法の下では主権は天皇にあったため,吉野作造は,天皇主権と相容れる国民の利益のための政治として普通選挙(納税額によって選挙権を制限しないこと。ただし,女性の選挙権を求めるものではなかった)と政党政治(政党によって行われる議会政治)が必要であるとの民本主義を唱えた。1918年,政府は警察や軍隊を用いて米騒動を鎮めたが,米騒動によって寺内正毅内閣が倒れ,原敬内閣が成立した。原敬内閣は,立憲政友会という政党を中心とした最初の本格的な政党内閣だった。原は貴族出身でない初の首相だったので平民宰相と呼ばれ,普通選挙運動が高まったが,原は時期尚早であるとして普通選挙に反対した。1925年,加藤高明内閣のもとで,満25歳以上の全ての男子に選挙権を与える普通選挙法が成立した(選挙権の条件である納税額は徐々に下げられていたが,これにより有権者は4倍に増えた)。ほぼ同時に,政治や社会の仕組みを変えようとする社会主義運動を取り締まろうとする治安維持法が定められ,後に,平和や自由を唱える人々の弾圧に悪用されることになる。大正時代には社会の様々な問題を解決しようという運動(社会運動)が高まった。労働者の生活を守るための労働運動が活発になり,1920年には初めてのメーデー(毎年5月1日に行われる労働者の祭典)が行われ,農村では小作料の引き下げを求める小作争議が起き,1922年に農民運動の中心となる日本農民組合が作られた。1922年に四民平等の社会でもなお差別を受けていた人々が,自分たちで差別をなくそうと立ち上がり,全国水平社を結成し,「人の世に熱あれ,人間に光りあれ」と呼びかける水平社宣言を発表した。女性は第一次世界大戦中に経済が急成長したことで,バスガールやタイピスト,教師,看護婦,デパートの店員などとして働く「職業婦人」も現れたが,賃金も低く,大多数の女性は旧来のしきたりの中で家に縛られていた。1911年,平塚らいてうが雑誌「青鞜」を創刊し(発刊宣言は「元始,女性は実に太陽であった」で始まる),1920年には市川房枝らが女性の参政権,男女平等を訴えて活動した。

 

昭和時代

第一次世界大戦後,日本は不況に見舞われていたが,1929年,アメリカから世界に広がった深刻な不景気である世界恐慌は日本の経済にも大きな打撃を与えた。人々の生活は苦しくなり,失業者も増え,農家の中には娘を身売りする者も増えた。財閥は不景気で倒産しかかった会社を吸収するなどしてますます大きくなり,政党にも資金を出して政治にも強い力を及ぼすようになり,人々は財閥や政党への不満を高めていった。こうした中,軍部を中心に満州を植民地にして日本経済の行き詰まりを切り抜けようという考えが高まっていき,「満州は日本の生命線である」といわれるようになった。1931年,満州に駐留していた日本の関東軍奉天(現在の瀋陽)郊外で南満州鉄道を爆破する柳条湖事件南満州鉄道爆破事件)が起き,関東軍はこれを中国軍の仕業だとして攻撃を開始して満州を占領し(満州事変),1932年には満州に日本の傀儡政権である満州国を建国して独立させた。中国は満州事変を日本の侵略であるとして国際連盟に訴え,これを受けて派遣されたリットン調査団の調査の結果,国際連盟満州国を承認しないと決議したため,これを不服とした日本は1933年,国際連盟を脱退し,国際社会から孤立していった。1932年,満州国の承認に反対していた犬養毅首相が海軍の青年将校に暗殺され(五・一五事件),政党政治は終わりを告げた。1936年には軍部中心の政府をつくろうとした陸軍の青年将校らが東京の中心部を占領するという事件も起こり(二・二六事件),日本は軍事力を強め,政治・経済・教育など国のあり方全てを戦争を目的とすることを基本とする軍国主義の道を進んでいくことになった。こうした動きに対する批判は治安維持法によって厳しく取り締まられた。日本は,満州だけでなく中国全土を支配しようとし,1937年,北京近郊での発砲事件(盧溝橋事件)をきっかけに中国との全面的な戦争に突入した(日中戦争)。日中戦争は泥沼化し,1937年12月に,当時の首都南京を占領した際に多くの中国人を殺害したとされる(南京事件)。日中戦争が長期化する中,政府は,国民を戦争に動員する体制を固めるため,1938年に政府が議会の承認なく物資や人を動かせるようにする国家総動員法を制定し,1940年には政党を解散させて戦争を追行する政府の方針に協力する大政翼賛会が作られた。隣り合った10軒程度で隣組を作らせて地域ぐるみで戦争に協力させ,戦争に反対するそぶりを見せるだけで治安維持法によって投獄された。そのための特高特別高等警察)という戦争反対などの思想を取り締まる特別の警察があった。小学校は国民学校と名を変えさせられ,教育勅語に基づいて,天皇陛下のために死ぬのが役目だと教えられた。日本の植民地であった朝鮮や台湾では,朝鮮の人々たちを「天皇の民」にするという皇民化政策が強められ,神社への参拝を強制し,朝鮮では姓名を日本風のものとさせるなどした。徴兵によって日本軍の兵士にさせたほか,不足する労働力を補うために多数の朝鮮人や中国人を強制連行して鉱山や工場で厳しい労働に従事させた。

第二次世界大戦

1939年,ドイツがポーランドに侵攻し,イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告して第二次世界大戦が勃発した。1940年,日本はフランス領インドシナ北部を占領し,ドイツ・イタリアと同盟を結んだ(日独伊三国同盟)。当初はドイツがヨーロッパのほとんどを制圧した。ドイツはナチス党を率いるヒトラーが,イタリアはムッソリーニが権力を集中させる独裁を行っていた。ナチスドイツはユダヤ人を敵視し,アウシュビッツ強制収容所(現在のポーランド)などに強制連行し,600万人ともいわれるユダヤ人を殺害した。「アンネの日記」は,ドイツ占領下のオランダで隠れ住んでいたユダヤ人少女の日記である。リトアニアの日本領事館の外交官であった杉原千畝は,ソ連を横断して日本からアメリカに逃れようとするユダヤ人に,政府の指示に反してビザ(入国するために必要な査証)を書き続け(「命のビザ」),およそ6000人のユダヤ人の命を救った。1941年,日本は燃料として不可欠な石油やタイヤの原料などになるゴムなどの資源が豊富な南方に戦力を集中するためソ連との間で日ソ中立条約を結んでインドシナ南部に軍を送った。日本の進出に危機感を持ったアメリカは石油の輸出を禁じ,中国や東南アジアから撤兵するよう求めたが,資源のない日本はこれを受け入れられず,対米戦争への気運が急激に高まり,1941年10月に陸軍大臣東条英機が首相となった。

1941年12月8日,日本陸軍マレー半島に上陸してイギリス軍を攻撃し,その少し後に海軍がハワイの真珠湾のアメリカ海軍基地(パール・ハーバー)を攻撃して,太平洋戦争(アジア・太平洋戦争)の火ぶたが切られた(宣戦布告が手違いで攻撃の後になされたため,日本軍の奇襲であるとして,アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)というのが戦争追行のスローガンとされた。)。日本は,欧米の植民地とされていたアジア諸国を開放し,日本とともに栄えていくという「大東亜共栄圏」を作るための戦争である「大東亜戦争」と呼んだ。アジア諸国では,日本軍の進撃を歓迎したところも多かったが,占領地の独立を認めず,石油やゴムなどの資源や食料などを確保し,現地の人々を日本軍の兵士にするなどしたため,次第に日本軍への反発が強まった。1942年にミッドウェー海戦でアメリカ軍に敗れ,航空母艦など多数の軍用艦を失い,戦局は一転して各地で敗退し,1944年には補給なく日本本土に爆撃機を飛ばせる距離にあるサイパン島を占領され,アメリカは大型爆撃機B29で日本の軍需工場だけでなく都市も爆撃するようになった。「ほしがりません,勝つまでは」,「ぜいたくは敵だ」などという標語のもとで国民は厳しい生活を強いられ,不足していた食糧や衣類は配給制や切符制となった。軍備に不可欠の金属が不足し,家庭の鍋や寺院の鐘までもが提供させられた(金属供出)。兵隊への召集令状は赤い紙だったので,「赤紙」と呼ばれ,配達されると天皇のために死ねる「喜ばしいこと」だとされた。戦局が悪化してくると,空襲が激しくなったため児童を親元を離れて地方の寺などに避難生活をさせる集団疎開学童疎開)が始まり,未来の日本を担うべき大学生も兵隊とし(学徒出陣),中学生や女学生を農村や工場で働かせ(勤労動員),敵国語である英語が禁じられて,例えばアナウンサーは「報道員」と言い換えられるなどした。アメリカの大型爆撃機が激しい空襲を行って一般の国民が多数犠牲になっているのに,政府は戦争を止めようとはせず,日本の本土で国民全員が死ぬまで戦う(一億総玉砕)などとして,アメリカ軍に竹槍で立ち向かう馬鹿げた「竹槍訓練」をさせるなどした。1943年にイタリアが降伏すると,アメリカ・イギリス・ソ連は1945年2月,ソ連のヤルタで会談を行い,戦争終結後のドイツの扱いや,ソ連の対日参戦などを決めた(ヤルタ会談)。1945年3月10日には東京大空襲により10万人が犠牲になり,4月にはアメリカ軍が沖縄島に上陸して3か月に及ぶ激しい地上戦が行われ,12万人が亡くなった。うち9万人が民間人で,スパイだと疑われるなどして日本軍に殺された人や,アメリカ軍の捕虜になるくらいなら自分で死ぬべきだといわれて「天皇陛下バンザーイ」と叫びながら次々と崖を飛び降りて死んでいくという悲惨な出来事も多く起こった。1945年5月に連合国軍はドイツの首都ベルリンを制圧し,ヒトラーは自殺してドイツは降伏した。1945年7月,ドイツのポツダムでアメリカ・イギリス・ソ連の代表者が会談を開き(ポツダム会談),アメリカ・イギリス・中国の名(ソ連は日ソ中立条約もあったため,ソ連の名は出さなかった)でただ一国戦争を続ける日本に対して無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表したが,日本はこれを無視した。8月6日にアメリカによって広島に原子爆弾が投下され(その年に14万人,その後の後遺症により20万人の人が一発の爆弾によって亡くなった。原爆投下は,戦後の世界でアメリカがソ連より優位に立つ狙いもあったといわれる),8月8日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破って日本に宣戦布告をして満州に攻め込み,8月9日には長崎に原子爆弾が投下され(7万人の人が亡くなった),ついに日本はポツダム宣言を受諾することを決定し,8月15日にラジオで昭和天皇が国民に向けて終戦を発表した(玉音放送)。こうして,長い戦争は終わった(正式な降伏は9月2日にアメリカの軍艦ミズーリ号の上で降伏文書に調印したときである)。

日本の降伏後,アメリカ軍を中心とした連合国軍が日本を占領し,ポツダム宣言に基づいて,日本の領土は本州,北海道,九州,四国とその周辺諸島に限られた。沖縄や小笠原諸島はアメリカ軍の統治下に置かれた。マッカーサーを最高司令官とする連合国軍総司令部(GHQ)は,日本の民主化を進める様々な指令を出した。軍隊を解散させ,戦争を指導した者らを公職から追放し,戦争犯罪人を裁く裁判を行い(東京裁判極東国際軍事裁判),東条英機ら7名がA級戦犯として死刑に処された。天皇は神の子孫であるとされていたが,1946年,昭和天皇は自分は人間であるという「人間宣言」を出した。1945年に治安維持法が廃止され,12月に衆議院議員の選挙法が改正され,満20歳以上の全ての男女に選挙権が与えられ,1946年の新しい選挙法の下での衆議院議員総選挙では,39人の女性議員が誕生した。1945年,日本の経済を支配し,戦争に協力していた財閥が解体され(財閥解体),大会社が利益を独占することなどを禁じる独占禁止法が制定された。農村の民主化のために政府が地主の農地を強制的に買い上げ,小作人に安く売り渡し,小作人は農地を持つ自作農になった(農地改革)。日本の民主化のために労働者の力を強めようと,1945年に労働者が団結して労働組合を作る権利を保障する労働組合法が,1947年には1日8時間労働や男女同一賃金の原則など労働条件の最低基準を定める労働基準法が制定された。教育の民主化のために1947年に教育勅語に代わって民主的な教育の原則を示した教育基本法が定められ,軍国主義的教育は廃止された。義務教育は小学校6年,中学校3年となった。都市の子供たちは空襲で焼け野原になった空き地で,黒板も机もない中で学び(青空教室),新しい教科書ができるためそれまでの教科書の軍国主義的な部分を墨で塗って使ったためほとんど読むところのない教科書になった(墨塗り教科書)。戦後の人々のくらしは厳しかった。戦地から復員してきた人々には仕事がなく,失業者があふれ,戦争で家族を失った子供(戦災孤児)も多くいた。食糧不足も深刻で,配給は滞りがちで,人々は農村に買い出しに行ったり,正規の市場ではなく値段は高いがいろいろな物資が手に入る闇市で食料や生活物資を手に入れるほかなかった。日本の民主化のためには憲法の改正が不可欠だったが,政府は天皇に主権があるという部分を変えようとしなかったので,GHQは,改正案を政府に示し,政府はこれを参考にして新憲法を作った。こうして日本国憲法が,大日本帝国憲法の改正という形ではあるが実質は全く異なるものとして,1946年11月3日に公布,1947年5月3日に施行された。日本国憲法は,国民主権(主権が国民にある),基本的人権の尊重(人が生まれながらに持っている人間らしく生きる権利を尊重する),平和主義(紛争解決の手段としての戦争を永久に放棄する)の三つを柱としている。1945年10月,二度の世界大戦への反省から,国際的な機関として本部をアメリカのニューヨークに置く国際連合が設立された。しかし,アメリカを中心とする資本主義諸国(会社や個人が資本を元手に経済活動を行って利益を得ようとすることによって自由で公平な社会が実現されるという考え方,西側諸国)とソ連を中心とする社会主義諸国(東側諸国)が,直接戦火を交えこそしないものの,激しく対立することになった(冷たい戦争,冷戦)。冷戦の影響で,ドイツ,朝鮮,ベトナムは国が二つに分断され,同じ民族が争うような状態も生まれた。ベトナムは1976年にベトナム戦争南ベトナムを支援していたアメリカが負けて南北ベトナムは統一され,1990年には冷戦の終了(1991年,ソ連を構成していたロシアなどの15の共和国が独立してソ連は解体した)とともに東西ドイツが統一されたが(ベルリンの壁の崩壊),朝鮮は南北に分かれて現在なお統一されていない。朝鮮半島は,1948年,北緯38度線(日本の佐渡島を通る)を境にして南にアメリカが後押しした大韓民国(韓国),北にソ連が後押しした朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が成立し,1950年,北朝鮮が北緯38度線を越えて南下したため,朝鮮戦争が勃発した。国際連合ソ連が欠席する中,北朝鮮の侵略であるとしてアメリカ軍を主力とする国連軍を出動させ,これに対して中国は北朝鮮を支援し,1953年に休戦協定が結ばれるまで東西対立を反映した激戦が続いた。日本は,朝鮮戦争のための軍需品などの大量の注文を受け,特需景気と呼ばれる異常な好景気となり,経済的に息を吹き返し,1951年には鉱工業生産額が戦前の水準を回復した。憲法で平和主義,戦争の放棄を掲げているにもかかわらず,GHQの方針変更により,1950年に警察予備隊が創設され,1952年には保安隊と名称を変え,1954年に現在の自衛隊となった。中国では1949年に毛沢東を主席とする社会主義国家である中華人民共和国が成立し,中華民国は台湾に逃れた(台湾と日本との関係は良好だが,正式な国交は開かれておらず,正式な国とは認めていない扱いになっている)。朝鮮戦争の影響もあって日本との講和を急いだアメリカとの間で,1951年,アメリカのサンフランシスコで講和会議が開かれ,日本は48か国との間でサンフランシスコ平和条約を結んだ。これにより連合国軍の日本占領は終了し(ただし小笠原諸島や沖縄は未返還),独立を回復した。しかし,ソ連ポーランドなどは条約の内容に反対して調印せず,中国は講和会議に呼ばれなかった。平和条約調印の直後に日本は,アメリカが日本を守るために軍隊を配備するなどという内容の日米安全保障条約を締結し,アメリカ軍基地は独立後も日本に残ることになった。日本経済が立ち直り,新たに日米が共同して日本の安全を守るという内容の新たな日米安全保障条約を締結する動きに対し,日本がアメリカの戦争に巻き込まれる危険があるとして批判が高まり,安保闘争と呼ばれる激しい反対運動が巻き起こったが,1960年,衆議院議員で多数を占める自由民主党自民党)は採決を強行して条約は承認された(その後,岸信介内閣は総辞職した)。

1956年,鳩山一郎首相は日ソ共同宣言に調印してソ連との国交を回復し,ソ連の反対がなくなったため国際連合にも加盟し,国際社会への復帰を果たした。しかし,北方領土問題は現在も未解決のままである。大韓民国とは1965年,佐藤栄作内閣のとき,日韓基本条約が結ばれ,国交が開かれた(北朝鮮とは未だに国交は開かれていない)。佐藤栄作内閣のとき,1968年に小笠原諸島が,1972年に沖縄がアメリカから日本に復帰した。しかし,現在でも米軍基地の4分の3が沖縄に集中している。1972年,田中角栄首相が日中共同声明に調印し,中華人民共和国との間で国交が正常化した。これにより,戦時中の混乱で中国に残されてしまった中国残留孤児の調査も開始されることになった。1978年には日中平和友好条約を結んでさらに友好を深めた(上野動物園にパンダが贈られたのはこの時である)。特需景気で息を吹き返してから経済は発展を続け,1955年から1973年に第四次中東戦争をきっかけにして起こった石油危機によって景気が失速するまでを高度経済成長期という。1956年には「もはや戦後ではない」といわれるようになり,1960年には池田勇人内閣が所得倍増計画を打ち出し,1964年にはアジアで初めてのオリンピックが東京で開催され,これに合わせて東海道新幹線が開通し,高速道路も整備されていった。1968年には日本の国民総生産(GNP)が資本主義諸国の中でアメリカに次いで2位となり,経済大国としての地位を確固たるものにした。人々のくらしも,1950年代には白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれて普及し,1970年頃からは乗用車(カー)・カラーテレビ・クーラーが「3C」ともてはやされ,普及していった。